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プロフィール

コンサル弁護士マスダについて

本 名 舛田雅彦 1957年1月4日生まれ
出身地 北海道札幌市
出身校 北九条小学校,北辰中学校,札幌北高等学校,中央大学法学部法律学科
資 格 弁護士(登録番号21629),中小企業診断士(登録番号405411)
公 職 北海道大学法科大学院特任教授,総務省年金記録確認第三者委員会委員(部会長),恵庭市入札制度監視委員会委員,札幌家庭裁判所家事調停委員
その他 株式会社マスダマネジメントオフィス代表取締役
趣 味 ゴルフ(現時点のハンディは8),将棋(大学卒業の時に取得した免状は四段だが現在の実力は・・・?),
カラオケ(これは結構自信あり。現在の上田文雄札幌市長の呼びかけで製作された憲法公布50周年記念CD「Japanese KENPO」に歌い手として参加している。)
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バイオグラフィー

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1 やんちゃな少年時代

札幌市出身と公言しているが,実は4歳くらいまでは,父親の実家がある石狩町に住んでいた。5歳になって,両親と一緒に札幌市に転居したが,札幌に移ってすぐのころは,2軒長屋の1軒に間借りして親子3人で生活するという有様だった。当時は余裕がなかったので2歳上の兄は父親の実家に残しての札幌生活のスタートであった。 母親は,結婚して二人の子を出産した後,農作業中に機械に足を挟まれ片足を切断せざるを得ない重傷を負っていた。そのため,片足が義足で長距離を歩くことが困難な母親に代わって,近くの市場に買い物に行くお使いを良くやっており,いまだにスーパーで買い物をするのが嫌いでないのは,この当時の経験が影響しているのではないかと思っている。

少年時代は札幌市北10条東1丁目に両親と兄の4人家族で住んでいた。近所の子供たちからは「マサ」と呼ばれ,ガキ大将的な存在であったが,決して暴力的ではなかった。当時の好きなスポーツは野球と鉄棒,特に鉄棒は手の皮が何度もむけるほど熱中した。当時,体型的には今風にいうプチ肥満タイプといえるが,その割には運動は苦手な方ではなかった。

好きなプロ野球チームは,北海道の少年のご多分にもれず巨人であったが,小学生のころに買ってもらった野球帽がたまたま「F」のマーク(現在の日本ハムの前身の東映フライヤーズ)だったこともあり,巨人と並行して東映(その後日拓ホームを経て日本ハムになっている。)のファンだった。(巨人と日本ハムどちらを応援するかといえば,日本ハムが東京ドームをフランチャイズにしていたころから心情的には日本ハムに肩入れしており,球団が札幌に移転してからは,迷いなく日本ハムファンとして応援している。)

小学校当時は,あまり勉強しなくてもそこそこの成績は取れていたが,小学校4年ころの授業参観がたまたまそろばんの授業にあたり,そのときうまく玉をはじけなかったのを見た親に命じられて,そろばん塾に通うようになる。そろばん塾でも,指がうまく動かせず苦戦したが,掛け算,割り算は暗算で答えられる程度の問題だったので,そろばんを使わずに,なんとか4級まではたどり着いた。(そこまで行ったのでそろばん塾通いからは解放された。いまだにそろばんで掛け算・割り算をやる方法は分からない。)

小学校時代のエピソードとしては,小学校1年の時に,たまたま親に代わって授業参観に来た叔母が昼休みに教室を覗いてみると,教壇に立って同級生に歌謡曲の歌唱指導をしているところを目撃されている。(当時から歌は大好きだったようである。) もうひとつのエピソードとして,小学校5年の時に,あまり相性の良くない女性の担任が算数の計算を黒板に書いたのに対して,「先生間違ってます!」と誤りを指摘したという事件があった。当時は無邪気に誤りを指摘しただけだったが,先生はいたくプライドを傷つけられたようで,後日親に対して愚痴めいたことを言ったようである。

中学1年の時に,札幌市東区のサッポロビール園の近くに引っ越す。当時通っていた中学校は北18条西1丁目にあったが,転校が嫌だったので,その後の2年半,約2キロの距離を通い通した。中学時代は,実家が牛乳販売店だったことから,家業の手伝いとして毎朝牛乳配達をして,毎月1万円程度のバイト料を貰っていたので,同級生の中では金銭的に恵まれた生活をしていた。

学校の成績は,常にクラスの2~3番というところで特別優等生ということはなかった。この当時から,授業中に板書を書き写したことがないのが特徴的な学習態度だった。本人の考えは,授業をきちんと理解していれば,板書されることは教科書に書いてある内容をなぞっているだけなので,わざわざ書き写す必要はないということであったが,毎年,年度初めに用意する各教科のノートは,年の終りになっても最初の方数ページしか使われないことが多かった。

授業に臨む態度としては,常に,授業で先生が話す内容の少し前を教科書で確認しながら,次に先生が何を話すかを意識して聞いているととてもよく理解できるというのが今も変わらぬ考えだが,学校時代に板書を書き写す訓練をしなかったのが,後に司法試験で大きなしっぺ返しになるとはこのときは気付いていなかった。

2 高校・大学時代

中学卒業後は,2歳上の兄が通っていた札幌北高等学校に当然のように進学。兄が結構先生たちからの覚えが良かったので,兄と比較されながらも苦労せずに授業に臨んでいた。(兄が使っていた教科書とノートが手に入ったので,それを有効に使わせてもらうことで,要領よく勉強させてもらった気がする。)ただ,高校1年の1学期に,英語で赤点を取ってしまった。当時の意識としては,受験勉強を頑張って志望校に入ったのだから,1年くらいは遊ばせてもらおうという甘い考えでいたが,さすがに赤点はまずいと思って,少し気持ちを入れなおしたものの,なかなか挽回はできず,1年の時の英語は10段階評価の3しか取れなかった。

高校2年以降は,少し気合いを入れて勉強するようになり,苦手の英語も卒業するときには10段階評価の7まで成績を上げることができた。理数系特に数学・物理は元々得意だったので,あまり苦労した記憶がない。

2年3年と少しずつ成績を上げて,大学受験に臨んだが,この受験勉強の過程で独自の受験メソッドを発見した。教科書や参考書をつぶすインプットに力を入れるよりも,難しい問題集を繰り返し解くアウトプットの練習をする方が効果があると確信して,問題集勉強法を実践。あまり得意ではなかった暗記科目もこれで克服することができた。

高校2年くらいから,弁護士という仕事に興味を持って将来は弁護士になろうと思っていたので(実はこの当時は弁護士がどんな仕事をするのかも良く理解していなかった。単にイメージで将来の仕事を決めていたのは今から思うと冷や汗が出そうな話である),大学受験は司法試験合格者数が多いと評判の中央大学と地元の北海道大学を受験する。当時の私立大学文系の受験科目は国語・英語・社会の3科目で,得意な理数系が生かせないのが辛かったが,なんとか合格して大学に行くことになった。北海道大学は,受験科目が国語・英語・数学に社会2科目,理科系1科目が受験科目だったが,得意の数学と物理で得点することができたので,こちらも合格できたが,子どものころから北海道大学の近くで生活していたことや,少し北海道から離れてみたいという希望もあり,親に無理を言って中央大学に進ませてもらった。

大学に入ると,親元から離れた気安さからか,糸の切れた凧のように勉強からは離れてしまうことになる。高校時代から始めていた将棋の世界にはまってしまって,大学の将棋部に入部。将棋部に入ってみると,こちらは初段にも満たない実力なのに,回りには3段・4段の実力者がすらりと揃っており将棋の力で頭角を現すのはかなり難しいことを自覚する。それでも,勝負の世界は刺激的で楽しかったので,将棋部のマージャンメンバーとして活動するようになる。大学に朝出かけると,授業そっちのけで部室に顔を出し。何局か将棋を指した後は,部員たち誘い合わせて雀荘に出かけるという毎日であった。(このころの経験が,後に弁護士になってから,遊びにはまって生活を崩してしまう人たちと接する際に役に立っていると感じている。)

授業にはほとんど顔を出さないものの,奇跡的に大学は4年で卒業した。しかしこの時点で,司法試験に受かれるような実力はどこにもなかった。とりあえず,親に対して司法試験を目指すと宣言した手前,卒業の年の司法試験を受験してみたものの,あえなく択一式試験で失敗。文字通りゼロからのスタートとなったが,ここから受験勉強に本格的に取り組むことになった。

3 暗かった司法試験受験時代

受験勉強は,たった一人の独学で,法律の教科書や判例集以外で参考になるのは,毎月本屋で購入する「受験新報」という司法試験受験雑誌だけという状態で勉強を始めた。司法試験は5月の連休明けに実施される択一式(4~5の選択肢の中から正解をマークシートで回答するのだが,私が受かったころには,正解なしのゼロ回答という問題もあったので,運だけでは受かれない試験だった。),8月に実施される論文式,10月に実施される口述式の3段階の試験に合格しなければならないが,高校時代に取り入れていた問題集勉強法を活用して,受験3回目で択一式試験に合格してから,この試験で失敗することはなかった。

司法試験の最難関は,論文試験であり,当時は4日間で7科目(各科目2題)に手書きで回答しなければならないという試験だった。前述のように,早く字を書くトレーニングをしてこなかったために,この試験は特に苦手意識を持っていた。加えて,受験予備校に行くこともしなかったことや(これは,知識もないのに受験テクニックで受かることに抵抗があったため。今から考えると,受かった後でも知識を吸収する機会は幾らでもあるので,「青かった」というところだろうか),当時は民事訴訟法と刑事訴訟法のどちらかを選択すれば良かったのを,敢えて両方の訴訟法を選択する(これも,弁護士になれば両方の訴訟法が必要なのだから,片方を選択しないのはおかしいでないかという思いであったが,前述のようにこれも「青い」考えだったかもしれない。)という回り道とも思える選択をしたこともあって,なかなか合格のゴールは見えなかった。

しかし,受験に失敗しているなかでも,自分が「合格できないのでは」と思ったことが一度もないというのが,おそらく合格できた最大の理由だと思っている。歴史上の偉大な発明・発見も数えきれない失敗の果てに結果を出しているものがほとんど。あきらめてしまうまでは失敗ではないという気持ちは大事なものである。

受験時代も,ただ勉強だけをしていた訳でもなく,一時期「雀球(ジャンキュウ)」というゲームにはまっていたこともあった。「雀球」は,パチンコ店の片隅にあったコインゲームで,14個の玉をはじいてマージャンの役を作れば,その役に応じてコインが出てくるというものだったが,これも,絶対に勝てる攻略法を見つけてしまい,毎日のように開店に並んでお昼前に1台を打ち止めにして帰ってくる(1台打ち止めにすると大体5,000円が手に入るので,元金を差し引いて1日4,000円以上のバイト料を手にしていたという感じ。)という生活を1年半くらいしていたことがあった。このゲームは,そのうち儲からないということからかパチンコ店から撤去されてしまったので,やめざるを得なかったが,この当時にパチンコにはまる人間模様を横目で見ていたのも,その後の弁護士業務に少なからず役だっていると思っている。

司法試験に合格したのは,昭和62年なので,ちょうど30歳の年ということになる。思えばこの間両親には大変迷惑をかけたが,なんとかこれで面目を果たして安心してもらえることになった。(お父さんお母さんありがとうございました。)翌昭和63年4月から2年間の司法修習生としての生活は,国から給料をもらえて実務家の先輩から多くのことを教えてもらえる貴重な機会であった。私たちのころは,2年間の最初と最後のそれぞれ4か月は東京の司法研修所で同期の修習生約500名とともに過ごすことになっていた。東京に自宅がない者は千葉県の馬橋にあった研修所の寮で生活したが,後期の修習中は寮のマージャン仲間と毎日のように対戦していた。学生時代にマージャンに明け暮れた経験はやはり周囲の連中よりは一日の長があったようで,寮の中では勝ち頭として一目置かれる存在になった。(当時は,修習最後の二回試験は,現在のように毎年100名前後落とされる試験ではなく,年に1~2名しか落ちない試験だったので,試験の恐怖はほとんどなかった。)

4 いよいよ弁護士に

司法修習が終わった平成2年4月に,札幌市の山本隼雄法律事務所に就職。ボスの山本先生は,大正11年生まれで当時既に70歳近いご高齢であったが,非常に酒好きの方で,仕事帰りには良く飲みに連れて行っていただいた。また,弁護士になった年に結婚して,平成3年1月に長女,平成4年9月に長男が生まれている。山本事務所での仕事は,かなり牧歌的な雰囲気で日々の業務を行わせてもらっており,今の若い弁護士の生活ぶりとは隔世の感がある気がしている。

ゴルフはこの事務所に入所した際に,ボスからクラブのセットをプレゼントされて始めることになった。最初の数年間はなかなか結果が出ずに苦労したが,練習は嫌いではなかったので,徐々に上達して今日に至っている。

また,弁護士として仕事をやっていく上には人脈を広げることが必須であるとのボスの指導を受けて,ロータリークラブへの入会を考えるようになり,平成4年5月,札幌幌南ロータリークラブに入会する。(現在まで17年間連続出席100%を継続しており,この間クラブ幹事などの役職を経験して,クラブの中枢メンバーとして活動している。)

その後,平成5年3月にボスの許可を得て独立することになるが,同期で高校・大学の後輩であった吉岡直樹弁護士との共同事務所を開くことを予定して,1年先に弁護士一人の事務所「ますだ法律事務所」を設立した。翌平成6年4月に吉岡弁護士が合流して「ますだ・吉岡法律事務所」となったが,平成13年9月までこの弁護士2人の共同事務所の形で運営していた。(事務所名を漢字ではないひらがなの「ますだ」にしたのは,苗字の「舛」がなかなか口で説明しにくいからであった。最近舛添要一氏が有名になって「舛添さんのマスです。」と言うことがあるが,それでも間違える人は少なくない。)

5 札幌総合法律事務所開設

共同事務所を行っていた平成12年ころから,年齢の近い弁護士数名で複数弁護士による共同事務所の構想を話しあうようになった。その構想を語り合うようになった理由は,やはり将来の法曹人口の増加に備えて,特徴のある法律事務所でなければ大勢の中に埋没してしまうという危機感と,少人数では対応できる事件が限られてしまうという業務上の問題があったからである。その構想は,複数弁護士がそれぞれ専門分野を持って多様な法的ニーズに応えられる事務所を作ろうということで合意に至って,平成13年10月,現在の札幌総合法律事務所設立ということになった。

札幌総合法律事務所の業務はその後順調に拡大していき,弁護士の数も増えていったが,その業務拡大の背景には,消費者金融やクレジットによる多重債務者の事件の爆発的な増加ということがあった。(このような状況を「クレサラバブル」と呼ぶ弁護士もいた。)法律相談業務の7割近くが多重債務関係という事態は弁護士業界に多くの収入をもたらしたが,その半面,多重債務問題が収束した後の業務体制に不安を感じる弁護士も少なくなかった。そこで,事務所の方針としていずれなくなる多重債務事件を業務の中心として考えるのはリスクが大きすぎるという判断から,それ以外の分野に業務の軸足を移す作業に取り掛かる必要が生じた。

平成18年春先ころから,事務所の人員が次第に増えていく中で,事務所の運営もある程度,一般企業の運営方法を取り入れて行う必要があるという考えから,企業経営を本格的に学び始め,関連の書籍を片っぱしから読みあさるようになった。そのようにある程度勉強を重ねていくと,企業経営の面白さを感じるとともに,多くの事業者が企業経営の定石を踏まえた合理的な企業経営をしているとは到底思えないことに気付いた。企業経営者の多くは,自分の経験の中で思いついた施策を試してみることはあっても,それは勘頼みの危険な経営であるということに気付いていないことがあったし,弁護士業務の中で取り扱った多くの倒産企業の実情は,多くの無駄と無策が重なって本来潰れる必要のない企業が倒産の憂き目を見ているということが分かるようになった。

それで,自らの知識と経験,そして人的ネットワークを多くの企業経営者に提供してサポートする業務に本格的に取り組む決心をして,平成18年11月ころから経営コンサルタントの国家資格である中小企業診断士の資格を取るべく受験勉強を開始した。中小企業診断士試験は思いのほか大変な試験で,勉強しなければならない分野がとても広く,1年間で1次試験・2次試験を突破して最終合格する割合は3~4%,最終合格者数も全国で800名前後と合格者数や合格率だけを見ると司法試験よりも大変な試験である。しかし,受験勉強を始めた以上途中で投げ出すことはカッコ悪くてできないし,かといって,こんな受験勉強を2年もやる気力は続かないだろうということでかなり必死に勉強に取り組むことになった。(受験勉強に力を入れることが可能になったのは,事務所の若手弁護士に訴訟事件のかなりの部分を任せることができるようになったからで,その意味では,この時期しか挑戦できない試験だったかもしれない。)

6 コンサル弁護士誕生

中小企業診断士試験は,1次試験で経済学・経済政策,財務・会計,企業経営理論, 運営管理(オペレーション・マネジメント),経営法務,経営情報システム,中小企業経営・中小企業政策という7科目を受験する必要があるが,弁護士であれば,このうち財務・会計と経営法務の受験が免除になるという特典がある。これは,司法試験の方が難しい試験だという評価からだと思う。財務・会計が免除になるのは,弁護士であれば税理士資格を有しているということが理由だと思うが,実際に財務・会計(特に「簿記」)に詳しい弁護士は余りいないので,この科目が免除になったのは非常にラッキーだった。そして,受験勉強は,司法試験の勉強と同じ問題集勉強法に取り組んで1次試験を突破し,苦手な筆記試験の2次試験も,弁護士業務で培った文章力が物をいったのか何とかクリアできた。最後の面接試験では直前に目を通した参考書に書いてあった問題が出るというラッキーもあり,通常5分程度かかる試験が2分くらいで終わってしまい,試験終了後に最終合格を確信できた。

そして,翌平成20年の2月から中小企業診断士の登録要件である15日間の実務補習(15日間といっても週末15日でその間は準備に充てなければならないので,実質40日くらいのイメージだった。)を経て,同年4月に晴れて中小企業診断士に登録することができた。

診断士に登録した後は,経営に関して学んだことを生かすために,毎月「企業経営勉強会」を開催して,企業経営の改善に取り組んでいる人たちと共に学び交流をするようになっている。

平成20年1月から,消えた年金問題解決のために設置された総務省の年金記録確認第三者委員会の委員(部会長)として議論の取りまとめをしている。

平成21年4月からは,かつて入学をしなかった北海道大学の法科大学院(ロースクール)の特任教授として,ローヤリング=クリニック(弁護士の実務全般をシミュレーションなどを交えて教える科目)の授業を受け持って,学生と接する日々を送っている。(特任教授になると,大学に研究室を与えられるが週のうち2日程度しか使用しないので,少しもったいない気がしている。)

2010年4月1日,札幌家庭裁判所調停委員に就任した。

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